岡山県出身の有名人 

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桜井日奈子
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MEGUMI

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森末 慎二(もりすえ しんじ)
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有森裕子
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甲本 雅裕(こうもと まさひろ)
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梶原善(かじはらぜん)
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宅麻 伸( たくま しん)
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オダギリ ジョー(おだぎり じょー)
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八名 信夫(やな のぶお)
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浅越 ゴエ(あさごえ ごえ)
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次長課長
井上 聡(いのうえ さとし)
河本 準一(こうもと じゅんいち)
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伊吹 剛(いぶき ごう)
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前野 朋哉(まえの ともや)
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山口 馬木也(やまぐち まきや)
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千鳥
大悟(だいご)
ノブ(のぶ)
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ウエストランド
河本 太(こうもと ふとし)
井口 浩之(いぐち ひろゆき)
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鈴鹿 央士(すずか おうじ)
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春風亭昇吉
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しゅんぷうてい しょうきち)
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ブルゾン
藤原しおり(ブルゾンちえみ)
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小寺 大介(おでら だいすけ)
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赤木野々花(あかきののか)
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大山 康晴(おおやま やすはる)
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犬養 毅(いぬかい つよし)
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平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう)
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橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう)
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宮本 武蔵(みやもと むさし)
1584
年~1645613  62才没
養子播磨生誕説(現在の兵庫県高砂市米田町)と、江戸時代後期の地誌『東作誌』の美作国(岡山県東部)宮本村で生まれたという記載による美作生誕説がある。

宮本武蔵は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した、無敵の剣豪である。 二刀を携えて戦ういわゆる二刀流を確立し、多くの実戦経験から独自の剣術論を構築して『五輪書』という伝書を書いたといわれている。 武道史の中で、日本のみならず世界中で最も有名な剣豪といってよい。

吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名である。
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山田 方谷(やまだ ほうこく)
1805
1877   73才没
現在の岡山県高梁市中井町に生まれる。
江戸時代末期から明治時代初期の漢学者、備中松山藩士です。
子供の頃から神童と呼ばれるほど才覚にあふれ、佐藤一斎(さとういっさい)門下では佐久間象山(さくましょうざん)と二傑とうたわれていました。
学者として藩に仕えていた方谷でしたが、藩主板倉勝静のもとで藩政改革を断行し、大きな成功をおさめました。 勝静が幕府の老中となると、その政治顧問として幕政にも関与しました。
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雪舟(せっしゅう)
1420
年~1506826
山口市87才没
雪舟は、日本の室町時代に活躍した水墨画家・禅僧。

備中国(現在の岡山県総社市)に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護を受け周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。
雪舟が描いた作品のうち、6点が国宝に指定されています。 これは、雪舟が秋と冬の自然をえがいた作品「秋冬山水図」です。
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竹久 夢二(たけひさ ゆめじ)
1884
年〈明治17年〉916 - 1934年〈昭和9年〉91日)
51
才没
岡山県邑久郡(現  瀬戸内市)に生まれた夢二は18歳で上京し、雑誌や新聞にコマ絵を寄稿するところから画家としての道を歩み始めます。 やがて「夢二式美人」といわれる独特の情感をたたえた美人画のスタイルを確立、叙情あふれる画集を次々と発表して人気作家となりました。
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宇喜多 直家(うきた・なおいえ)
1529
15821581説もあり)
今の岡山の地に進出した戦国武将。
岡山城の前身となる石山の城を築いた。

一説に備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県瀬戸内市邑久町豊原)にあった砥石城で生まれたという。
美作・備前進攻をうかがう備中松山城主・三村家親を暗殺。 翌年、2万の兵力で備前に攻め入った家親の子・元親をわずか兵5千をもって撃退(明禅寺合戦)、この完勝をもって完全に「戦国大名」となる。
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宇喜多 秀家
(うきた・ひでいえ)
1572~1655
父直家の代から岡山を治めた戦国大名。石山の城の隣の丘「岡山」に天守を持つ新たな城を築き、城下町づくりを行った。岡山城🏯初代城主。

織田信長により、本領を安堵(あんど;権力者から土地所有権を確認されること)され、宇喜多軍は信長の命令によって中国攻めを進めていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力した。
また、秀吉の命により2度目の朝鮮出兵から帰国した宇喜多秀家は、朝鮮での軍功や岡山城の改修など、多岐にわたる功績によって、豊臣秀吉から豊臣五大老のひとりとして任命。

日本史上最も有名な戦である「関ケ原合戦」では、西軍の主力となって戦ったが、破れ、その後、八丈島に流刑となり、同地で約50年暮らした。
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小早川 秀秋(こばやかわ・ひであき)
1582
1602

豊臣秀吉の甥として生まれ、丹波国亀山城城主、筑前国名島城城主。

「関ヶ原の戦い」で東軍「徳川家康」と西軍「石田三成」が戦って、西軍敗北の原因のひとつを作った武将です。小早川秀秋の裏切りで形勢が徳川家康が率いる東軍に傾いたことは間違いありません

通説によると、秀秋は西軍に与するか東軍に与するか決めかねたまま、松尾山に着陣したという。
小早川秀秋が東軍に就いた理由は諸説ありますが、小早川家の重臣たちが徳川家康派であったことや、「黒田長政」(くろだながまさ)が東軍への加担を勧めていたことが、東軍に就いた一因と見られています。

この戦功により、敗軍の将となった宇喜多秀家の旧領のうち備前国・美作国の51万石を与えられ岡山城に入城した。
備前国岡山城(岡山城2代城主)では、近代化改築に取り組んだが、岡山に来て2年足らずで、21歳の若さで亡くなった。
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池田 光政(いけだ・みつまさ)
1609~1682
武将、大名。播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩主(池田宗家)。

小早川 秀秋の死後、播磨姫路城主「池田輝政」(いけだてるまさ)の2男「池田忠継」(いけだただつぐ)が、岡山に入封(岡山城3代城主)したが23年後死去した。
その後、忠継の弟・忠雄が淡路より入封した。(岡山城4代城主)
忠雄の子・光仲が因幡鳥取へ転封し、入れ代わって因幡鳥取から池田光政が入封した。
光政が岡山城5代城主となる。
光政は姫路城で生まれたが、父の死後に鳥取城主となっていた。

自ら先頭に立って政治改革を行い、政治や教育、災害対策など現代につながる岡山の基礎を築いた。江戸時代初期の名君として知られる
儒教主義に基づき殖産興業・農業改良に努力,また士民の教育を推進し,熊沢蕃山を用い,花畠教場・閑谷 (しずたに) 学校を創設した。
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池田 綱政(いけだ・つなまさ)
1638
1714
岡山城6代城主
新田開発や治水事業に取り組む。文化にも明るく、岡山城に隣接する日本三名園の一つ「岡山後楽園」を造営した。
岡山後楽園は、江戸時代を代表する大名庭園の一つです。 家臣の津田永忠に命じて、造らした。
以後、池田家が城主を務め、最後は14代城主「池田章政」まで続いた。
池田章政は、維新後、明治2年になって版籍奉還を行って朝廷から岡山藩知事に任じられるが、明治4年の廃藩置県で藩知事を免ぜられ、東京に移住する。ここに岡山城は藩の府城たる役割を終え、国の所有となった。

その後現在では、池田家家系の、池田隆政が昭和天皇の第4皇女(上皇陛下の姉)の厚子さんと結婚。
池田隆政は、池田動物園や池田牧場を経営していたが、2012年に85才で死去した。

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